【デビュー物語】レイ・チャールズ

デビューの瞬間には、さまざまなドラマがちりばめられています!

どんなスーパースターにも、新人の時がありました。

ここでは、さまざまなアーティストの最初の一歩をご紹介します。

今回は、ソウル・ミュージックの帝王、レイ・チャールズです。

これを読めば、きっとあなたも「聴いてみたい!」と思われるでしょう。

それでは、ご覧ください。

少年時代

レイ・チャールズは1930年アメリカ、ジョージア州オールバニ生まれのシンガーソングライターです。

レイの母親はシングル・マザーでしたが、彼に深い愛情を注ぎ育てます。また、レイも母親を強く愛していました。

経済的には困難な家庭環境でしたが、彼は母親の愛のおかげですくすくと成長します。

幼い頃の彼は機械が好きで、車や農機具で作業をする人々を飽きもせず眺めていました。

3歳のころ、カフェの主人であるワイリー・ピットマンが店で演奏していたブギウギ・ピアノに惹かれて音楽に興味を持ちます。

ワイリーは幼いレイにピアノを教えてくれました。

悲しみをのりこえて

レイが6歳のとき、悲劇が起きます。レイが可愛がっていた2歳年下の弟ジョージが、不慮の事故で亡くなってしまったのです。

悲劇はレイ自身にも及びました。しばらく目の不調を患っていた彼でしたが、7歳のときついに失明してしまったのです。緑内障だったと言われています。

母親はレイを盲学校に入学させました。

レイは学校でクラシックピアノを本格的に学びはじめます。

楽譜を見ることができない彼にとって、その勉強は大変にきびしいものでしたが、レイは才能を発展させていきました。

旅のはじまり

1945年、愛する母親が亡くなります。このことはレイにとって言い現わせない大きなショックとなりました。

そして彼は学校をやめてしまいます。

ここから彼の厳しい旅がはじまるのでした。

レイはジョージアを離れ、フロリダ州のジャクソンビルに移ります。

バンドに加入し、劇場でピアノを弾いて収入を得ました。

彼はさまざまなミュージシャンたちから自分にとって必要なものを吸収し、音楽の才能をどんどん発揮していきます。

しかし、ジャクソンビルでの仕事に行き詰まりを感じるようになりました。

クインシー・ジョーンズ

1年後、16歳になったレイはオーランドに移住。しかしここでも満足な仕事にはありつけず、貧しい生活がつづきました

。第二次世界大戦後の不景気という状況も追い打ちをかけます。

さらにレイはフロリダ州内を転々とします。1947年にはタンパに移りました。

1948年、レイは心機一転のため、ワシントン州シアトルに向かいます。

南部よりも、これからは北部の都市から新しい音楽が生まれるとの期待がありました。

このころ、レイはのちに大プロデューサーとなる、当時はトランぺッターだった15歳のクインシー・ジョーンズと出会います。

レイはクインシーを弟分として可愛がりました。

シアトルではピアノ・トリオを結成して演奏し、人気を博します。

レコーディングも開始、レイは編曲なども手掛けています。

アトランティック・レコード

1950年、レイはカリフォルニア州ロサンゼルスへと拠点を移し、演奏活動を繰り広げていきました。

スイング・タイム・レコードから、ソロ名義で何枚かヒット曲を発表したのち、1952年にレイはついに大手のアトランティック・レコードと契約を結びます。

アトランティックからは多数のヒット曲が生まれ、レイは大スターの仲間入りを果たします。

ブルース、ゴスペルそしてリズム&ブルースを昇華させ、ソウル・ミュージックを創り上げた人物の一人として、レイ・チャールズの長い旅はまだまだ続いてゆくのでした。

Ray Charles

アルバム「レイ・チャールズ」は、1957年にアトランティック・レコードより発表された彼のデビューアルバムです。

「ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー」など、初期のヒット曲が収められています。

今回は、レイ・チャールズの最初の一歩をご紹介しました。

聴いてみたい!と思われたあなたは、こちらからどうぞ。
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