【デビュー物語】ジャクソン・ブラウン

デビューの瞬間には、さまざまなドラマがちりばめられています!

どんなスーパースターにも、新人の時がありました。

ここでは、さまざまなアーティストの最初の一歩をご紹介します。

今回は、アメリカを代表するシンガーソングライター、ジャクソン・ブラウンです。

これを読めば、きっとあなたも「聴いてみたい!」と思われるでしょう。

それでは、ご覧ください。

ドイツからカリフォルニアへ

ジャクソン・ブラウンは1948年生まれ、アメリカのシンガーソングライターです。

父親の仕事の関係で西ドイツのハイデルベルクで生まれました。

彼が3歳のとき、家族はカリフォルニア州ロサンゼルスに引っ越します。

幼いころからブラウンは音楽好きでした。10代になると地元のさまざまな場所でフォークソングを演奏するようになります。

ニッティ・グリッティ・ダート・バンド

1966年、高校を卒業したブラウンは、ロサンゼルスで新たに結成されたニッティ・グリッティ・ダート・バンドというカントリー・ロックを演奏するバンドに加入しました。

ブラウンがこのバンドに参加していた期間はわずか数か月でしたが、ライブに参加してラヴィン・スプーンフルの前座を務めたりと、経験をつみます。

ブラウンは作曲も行うようになり、バンドは彼の作った曲をのちにレコーディングしました。

なお、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドこの後「ミスター・ボージャングルス」などの有名曲を発表、息の長いバンドとして活動を続けています。

ニューヨークへ

ソロ活動に専念することを決意しバンドを脱退したブラウンは、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに活動の拠点を移しました。

彼はニーナ・ミュージックという音楽出版社と契約します。

1967年には作曲家として、またバック・ミュージシャンとして活動をはじめました。

このころブラウンは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌手であるニコと恋仲になります。

彼はニコのソロ・デビューアルバムにおいてギターを弾き、曲も提供しました。

アサイラム・レコード

1968年、ブラウンはロサンゼルスに戻ります。フォーク・バンドを結成して活動をおこないました。

また、バーズやリンダ・ロンシュタットに曲を提供しています。

このころ、のちにイーグルスを結成することになるグレン・フライと出会いました。

彼らは同じアパートの住人となり、イーグルスのデビューシングル「テイク・イット・イージー」を共作することになります。

この時点でブラウンはたくさんのアーティストに曲を提供し、その実績は充分となりました。

音楽業界では、彼の名前は知られるようになっていきます。

しかし、まだソロ・デビューは果たしていません。

1970年、ブラウンはデモ・テープをプロデューサーのデヴィッド・ゲフィンに送っていました。

ゲフィンはブラウンのためにレコード会社を探しましたが、なかなかうまくいきません。

1971年、ゲフィンは自らレコード・レーベル、アサイラム・レコードを立ち上げます。そして晴れてブラウンと契約したのでした。

ジャクソン・ブラウン・ファースト

1972年、ついにジャクソン・ブラウンのデビューアルバム「ジャクソン・ブラウン・ファースト(Jackson Browne)」が発表されます。

豪華なバック・ミュージシャンが参加し、ブラウンのかろやかなボーカルに美しいコーラスが重なる、さわやかなウエストコースト・サウンドでした。

彼のデビューシングルとなった「ドクター・マイ・アイズ」はシリアスな内容の歌詞ながら、ポップな曲調で大ヒットします。

この曲はヒットチャートで8位まで上昇しました。

アルバムの、チャートでの成績は53位となっています。

以降、ジャクソン・ブラウンはアメリカを代表するミュージシャンのひとりとして、また社会活動家としても大きな存在になりました。

今回は、ジャクソン・ブラウンの最初の一歩をご紹介しました。

聴いてみたい!と思われたあなたは、こちらからどうぞ。
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