【デビュー物語】ニール・セダカ

デビューの瞬間には、さまざまなドラマがちりばめられています!

どんなスーパースターにも、新人の時がありました。

ここでは、さまざまなアーティストの最初の一歩をご紹介します。

今回は、60年代ポップスの代表歌手、ニール・セダカです。

これを読めば、きっとあなたも「聴いてみたい!」と思われるでしょう。

それでは、ご覧ください。

少年時代

ニール・セダカは、1939年アメリカのニューヨーク州ブルックリン生まれのシンガーソングライターです。

幼いころから音楽への関心が高かったニールは、学校の授業で高い評価を受けていました。

先生が「ピアノのレッスンを受けることを推薦します」という手紙を家族に送ったほどです。

それを読んだ母親は発奮。ニールのためにパートの仕事で働いて、中古のピアノを買い与えました。

母はニールに、クラシックのピアニストになってほしかったのですが、彼はどんどん、ポップスに夢中になっていきます。

そして自分で曲も作り、シンガーソングライターを目指すようになりました。

彼女は落胆しましたが、後年ニールが大成功を収めたときに、やっと納得しています。

ハワード・グリーンフィールドとの出会い

ニールが13歳のとき、3歳年上で詩人、作詞家のハワード・グリーンフィールドと出会いました。

以後、彼らはコンビを組んで数々の曲を発表していくことになります。

1955年、セダカは友人たちとリンク・トーンズというグループを結成しました。

地元のパーティやイベントなどで演奏活動を行います。やがてレコーディングも経験し、ローカルなヒット曲も出すことになりました。

このバンドがのちにトーケンズと名を変えます。

ニールは1957年に脱退するのですが、トーケンズは1961年、「ライオンは寝ている」のナンバーワン・ヒットを出すことになりました。

コニー・フランシス

トーケンズを脱退後、ニールは歌手、そしてハワード・グリーンフィールドとの作詞、作曲コンビで作家として、本格的に活動を始めます。

歌手としては3枚のシングルを発表。作家としては、コニー・フランシスに提供した「間抜けなキューピット」がヒットし、ニールは注目を集めるようになりました。

そして彼は、歌手としてRCAビクターレコードと契約を交わすことに成功します。

恋の日記

ある日、ニールとハワードが一緒に曲を作っていたところ、コニー・フランシスが近くで日記を書いていました。

ニールはコニーに、「日記を読んでもいい?」とたずねます。コニーは拒否しました。

そんなエピソードから生まれた曲が、1958年に発表されたニールのRCAからのデビュー曲「恋の日記」です。

歌詞の内容は、「片思いのあの娘の、鍵のかかった日記を読んでみたい。そこに書かれている男の子の名前は僕なのか?」という、なんともほほえましいものです。

「恋の日記」は、シングルチャートで14位まで上昇するヒット曲になりました。

おお!キャロル

いいスタートでしたが、彼にピンチがおとずれます。

あとに続く曲が、ヒットしないという状況が続いてしまったのです。

一時、RCAビクターはニールとの契約を解除することも検討し始めました。

彼は必死に勉強し直し、その時にヒットしていた曲を研究しました。

苦労に苦労を重ねてようやく自信作を創り上げることができたのです。

それが1959年に発表された「おお!キャロル」です。

学生時代、ガールフレンドだったシンガーソングライターのキャロル・キングに捧げた曲で、この曲が起死回生の大ヒットとなりました。

シングルチャートで9位まで上昇。また、この曲のB面に収録された「恋の片道切符」は日本では彼の代表作と言えるほど大ヒットしました。

なお、曲を贈られたキャロル・キングは返礼として「おお!キャロル」の歌詞だけを変更した「おお!ニール」という曲を発表しています。

Rock with Sedaka

「おお!キャロル」のあとも、ニールはヒット曲を連発。

60年代を代表するポップス歌手のひとりとなります。

アルバム「Rock with Sedaka」は、1959年にRCAビクターから発表されたデビューアルバムです。

全曲、ニール・セダカとハワード・グリーンフィールドとの共作。デビュー曲「恋の日記」が収録されています。

今回は、ニール・セダカの最初の一歩をご紹介しました。

聴いてみたい!と思われたあなたは、こちらからどうぞ。
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