【デビュー物語】リトル・リチャード

デビューの瞬間には、さまざまなドラマがちりばめられています!

どんなスーパースターにも、新人の時がありました。

ここでは、さまざまなアーティストの最初の一歩をご紹介します。

今回は、ロックン・ロール・ナンバーワン・シャウター、リトル・リチャードです。

これを読めば、きっとあなたも「聴いてみたい!」と思われるでしょう。

それでは、ご覧ください。

少年時代

リトル・リチャードことリチャード・ウェイン・ペニマンは1932年アメリカ、ジョージア州メイコン生まれのシンガー・ソング・ライターです。

12人兄弟の3番目に生まれた彼の両親はどちらも教会の関係者でした。

そのため、幼い時から教会で歌い、ピアノのレッスンも受けています。

やがて彼は、その小柄な体からリトル・リチャードというニックネームで呼ばれるようになりました。

彼には大声という天性の才能があり、しばしば教会の聖歌隊では「うるさすぎる!」と注意を受けています。

少年時代のリチャードに影響を与えたのはマヘリア・ジャクソンなどのゴスペル歌手でした。

悪魔の音楽

高校生になると、吹奏楽団に入り、サックスを演奏し始めます。

さらに地元のコンサート会場で飲み物を売るアルバイトを始めました。

そこでさまざなアーティストに触れて、彼の感性は磨かれていくことになります。

ときにはコンサートの前座として歌を披露することもありました。

1949年、16歳になるとリチャードは本格的に人前での演奏活動を開始します。

これまで、彼にとって音楽と言えばゴスペルだったのですが、この時期にリズム&ブルースという新しい音楽に出会うことになりました。

それまで彼の家族はリズム&ブルースは「悪魔の音楽」とみなし、リチャードには触れさせないでいたのです。

しかし、彼は家を出て自立し、悪魔の音楽にのめりこんでいくことになりました。

レコーディング

リズム&ブルースとの出会いは、彼にとって自身の「性」と向き合うことにもなりました。

同性愛者であるため父親に疎んじられていた彼は、ステージでその気持ちを開放するようになります。

630ヴォンヌ」という名義で女装しての演奏活動も始めるようになりました。

プロのリズム&ブルース歌手になることを決意したリチャードは、さまざまなステージで経験を重ね、そのステージ・パフォーマンスに磨きをかけていきます。

しだいに彼のダイナミックな歌唱は評判をあつめるようになっていました。

やがて彼はRCAビクターとレコーディング契約を交わします。

何枚かシングル・レコードを発表しますが、ヒットには至りませんでした。

1953年にはピーコック・レコードからレコードを発表しますが、これもヒットせず。さらに契約でトラブルも起きてしまい、彼は失意のうちに故郷メイコンに戻ります。

ヒアズ・リトル・リチャード

皿洗いなどの仕事をしながらの貧しい生活でしたが、彼はあきらめずにデモ・テープをレコード会社に送り続けました。

それがついに実る日が来ます。

1955年、送ったデモ・テープがスペシャリティ・レコードに認められたのでした。

同年に発表されたスペシャリティからの第1弾シングル「トゥッティ・フルッティ」はシングルチャートで21位、リズム&ブルースのチャートでは2位という大ヒットになります。

その後の彼は大ヒットを連発。

ピアノを弾きながらソウルフルにシャウトする歌唱スタイルは大評判になり、リチャードはロックンロールの創始者のひとりとなりました。

「ヒアズ・リトル・リチャード」は、1957年に発表されたデビューアルバムです。

「トゥッティ・フルッティ」や「のっぽのサリー」などのヒット・シングルのA面とB面の曲が収録されていました。

アルバムチャートで13位となる大ヒットを記録した、彼の代表作と呼べるアルバムです。

今回は、リトル・リチャードの最初の一歩をご紹介しました。

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