【デビュー物語】サイモン&ガーファンクル

デビューの瞬間には、さまざまなドラマがちりばめられています!

どんなスーパースターにも、新人の時がありました。

ここでは、さまざまなアーティストの最初の一歩をご紹介します。

今回は、60年代を代表するフォーク・デュオ、サイモン&ガーファンクルです。

これを読めば、きっとあなたも「聴いてみたい!」と思われるでしょう。

それでは、ご覧ください。

ニューヨークの少年

サイモン&ガーファンクルは、アメリカのフォーク・デュオです。

ポール・サイモンは1941年、ニュージャージー州ニューアーク生まれ。両親ともに教育者という一家に生まれました。

1945年、家族はニューヨークに引っ越します。

ポールは、音楽そして野球を愛するごく普通の少年でした。

アート・ガーファンクルは1941年、ニューヨーク生まれ。3人兄弟の2番目として生まれました。

彼は子供のころから歌うことに対して熱心でした。

父親が買ってくれたテープレコーダーに自分の歌を録音し、それを聞いては欠点を修正する、という勉強をくりかえします。

また、バスケットボールにも夢中になりました。

彼らの家は近く、同じ小学校に通っていたのですが、2人が初めて出会ったのは11歳のときでした。

1953年、学校の舞台で「不思議の国のアリス」を演じた時のことです。

ポールとアートはすぐに友人となります。

仲間をあつめてザ・ペプトーンズというドゥーワップ・グループをつくり、ハーモニーを練習しました。

トム&ジェリー

高校生になると、2人の活動はさらに活発的になります。自分たちで作曲もするようになりました。

15歳のとき、「ヘイ・スクールガール」という曲を作った彼らはスタジオに行き、25ドルを払って自分たちでレコーディングします。

ビッグ・レコードの宣伝担当だったシド・プロセンは2人の少年に気をひかれます。

シドは彼らの両親と話をして、契約を交わすことになりました。

ビッグ・レコードは2人にトム&ジェリーというグループ名をあたえます。ポールがジェリー・ランディス、アートがトム・グラフという芸名でした。

「ヘイ・スクールガール」はビッグ・レコードから発売され、チャートで49位という、15歳の少年たちにすれば快挙と言えるヒットを飛ばします。

トム&ジェリーとしての演奏活動をしつつ、まだミュージシャンとしての将来に確信が持てなかった2人は、どちらも大学に進学しました。

ふたたび2人で

大学時代、ポールとアートは一時的に別々の音楽活動を始めます。ポールは他のアーティストに曲を提供する仕事もしていました。

1963年、大学を卒業したポールは、「やっぱりアートと音楽活動がしたい」と思うようになります。このころ、時代はフォークソング・ブームでした。

そして、まだ大学生だったアートを誘います。おたがいにフォーク・ソングに夢中になっていることを確認した2人は、またいっしょに活動することになるのでした。

「ケイン&ガー」と名乗った2人は、グリニッジ・ヴィレッジにて演奏するようになります。

サウンド・オブ・サイレンス

トム・ウィルソンはコロムビア・レコードの著名なプロデューサーでした。

彼らの演奏を気に入ったトムは、オーディションを受けることを勧めます。

コロムビア・レコードのオーディションで2人は「サウンド・オブ・サイレンス」という曲を演奏しました。

そして、見事合格。プロデビューの権利を勝ち取ったのです。

2人は、もはや芸名を使うことはない、と判断しました。

こうして、サイモン&ガーファンクルが誕生したのです。

水曜の朝、午前3時

1964年、彼らのデビューアルバム「水曜の朝、午前3時」が発表されました。

ポールのオリジナルが5曲、トラディショナルソング3曲、他のアーティストのカバーが4曲という構成です。

オリジナルの中には、のちに大ヒットとなる「サウンド・オブ・サイレンス」のアコースティック・ヴァージョンが含まれていました。

残念ながら、「水曜の朝、午前3時」は全くヒットしませんでした。

要因として、この時期はちょうどフォークソングブームが落ち着いて、ビートルズなどのブリティッシュ・ロックが大人気になっていた、ということが挙げられます。

このことにショックを受けたポールはヨーロッパ放浪の旅へ出発、アートは大学に戻ることになりました。

このあとの大成功を、まだ知らない2人だったのです。

今回は、サイモン&ガーファンクルの最初の一歩をご紹介しました。

聴いてみたい!と思われたあなたは、こちらからどうぞ。
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