【デビュー物語】スティーヴィー・ワンダー

デビューの瞬間には、さまざまなドラマがちりばめられています!

どんなスーパースターにも、新人の時がありました。

ここでは、さまざまなアーティストの最初の一歩をご紹介します。

今回は、天才ソウル・シンガー、スティーヴィー・ワンダーです。

これを読めば、きっとあなたも「聴いてみたい!」と思われるでしょう。

それでは、ご覧ください。

神童

スティーヴィー・ワンダーことスティーヴランド・モリス・ジャドキンズは、1950年、アメリカのミシガン州サギノー生まれのシンガーソングライターです。

早産により未熟児として生まれた彼は保育器に入れられましたが、その時に過剰に酸素を吸入したせいで、未熟児網膜症を発症。盲目となってしまいました。

スティーヴィーが4歳の時、両親が別居することになります。

彼は母親とともに生まれ故郷のサギノーからデトロイトに転居しました。

スティーヴィーは幼い時から、音楽に対しての才能を見せます。

視力がないかわりに耳が非常に良く、わずかな音の違いを聞き分けることができました。

ラジオで音楽を聴くことに夢中になり、身の回りにあるものをなんでも叩いてリズムをとるようになります。

やがてピアノを弾くようになり、ドラムやベースも演奏できるようになりました。

ハーモニカ・マン

そして決定的だったのが、叔父さんからプレゼントされたクロマティック・ハーモニカです。

これは、単音のハーモニカと違い、スライド・バーを操作することによってシャープやフラットなどの半音を出すことができる楽器でした。

彼はこのハーモニカを自分の分身のように演奏します。

音楽に関しては神童でしたが、スティーヴィーは私生活の面では、とんでもない「わんぱく少年」でした。

彼のいたずらに学校の先生たちは非常に悩ませられることになります。

スティーヴィーのいたずら好きは、大人になっても直ることはなく、そのユーモアとともに、彼の愛すべき一面となりました。

フィンガーティップス

1961年、彼はデトロイトの音楽会社、モータウンレコードの目に止まります。

その才能と将来性を見込まれたスティーヴィーは弱冠11歳にして、モータウンと契約を結びました。

この時期にデトロイトに居たスティーヴィー。デトロイトの新興レコード会社モータウン。この出会いは、奇蹟としか言いようがありません。

モータウンによってスティーヴィーは、長期的なビジョンの元で大事に育てられることになりました。

しかし、思わぬところで大ブレイクがやってきます。

1962年、スティーヴィーは3枚のシングルと2枚のアルバムを発表しました。しかし、ヒットには至りません。

そして1963年、12歳のスティーヴィーがモータウンのライブ・ショーで披露した「フィンガーティップス」が、なんとシングル・チャートで1位となったのです。

本編の演奏が「フィンガーティップス・パート1」、アンコールの部分が「フィンガーティップス・パート2」という構成でした。

ジャズ・ソウル~スティーヴィー・ワンダー・ファースト・アルバム

ライブのスリリングな演奏を切り取ったこのシングルは、スティービーのパフォーマンス、観客とのコール&レスポンスが一体となった名演となります。

このシングルを収録したアルバムも、チャートで1位となりました。

さて、この大熱演の前年に録音されたのが前述の2枚のアルバム、「ジャズ・ソウル~スティーヴィー・ワンダー・ファースト・アルバム」と、「レイ・チャールズに捧ぐ」です。

録音した順番は「レイ・チャールズに捧ぐ」が先ですが、発売されたのは「ジャズ・ソウル~」が先なので、こちらがデビューアルバムということになりました。

「ジャズ・ソウル~」は、全編がボーカルなしのインストゥルメンタル曲という、12歳のデビューアルバムとしては渋すぎる内容になっています。

前述の「フィンガーティップス」のオリジナル・ヴァージョンも収録されています。

今回は、スティーヴィー・ワンダーの最初の一歩をご紹介しました。

聴いてみたい!と思われたあなたは、こちらからどうぞ。
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