【ようこそブルースへ】ライトニン・ホプキンス

ブルースには、音楽の魅力のすべてが詰まっています!

ブルースは現在主流のロック、ポップスなどの音楽のルーツとして、永遠に色あせない魅力を持っています。

ここでは、素晴らしいブルース・ミュージシャンたちをご紹介します。

今回は、テキサス・ブルースの大巨人、ライトニン・ホプキンスです。

これを読めば、きっとあなたも「聴いてみたい!」と思われるでしょう。

それでは、ご覧ください。

ブルースの継承

ライトニン・ホプキンスことサム・ジョン・ホプキンスは1912年、アメリカのテキサス州センターヴィル生まれのギタリスト、シンガーソングライターです。

少年時代から音楽、それもブルースにどっぷりと浸かっていました。

8歳のとき、ホプキンスは教会の集まりにおいて、テキサス・ブルースの父と呼ばれたブラインド・レモン・ジェファーソンと出会います。

彼はジェファーソンの音楽に引きつけられ、行動をともにするようになりました。

ジェファーソンのほうもホプキンスを大いに気に入り、ギターを教え、さらに一緒に演奏することを許します。

彼はジェファーソンから、多くのものを学びました。

放浪

30年代の半ば、ホプキンスはヒューストン郡の刑務所農場に収監されます。

罪名は何だったのか、はっきりとはわかっていません。

その後、ホプキンスは放浪をつづけます。

ブルース・シンガーのテキサス・アレクサンダーとコンビを組んで、さまざまな場所で演奏活動をおこないました。

しかし、音楽での成功は難しいものです。

結局、40年代の初めには生まれ故郷のセンターヴィルに戻り、農場で働いて生活していました。

第二次世界大戦終了後の1946年、ホプキンスはふたたび成功を夢見てヒューストンの街へ出ます。

彼がヒューストンで演奏しているのを、ローラ・アン・カラムという人物が目にとめました。

彼女は、カリフォルニア州ロサンゼルスにあるアラディン・レコードのスタッフです。

ローラはホプキンスの音楽を気に入り、ロサンゼルスに来ないかと誘いました。

彼は了承します。

稲妻

ホプキンスは当時コンビを組んでいたピアニストのウィルソン・スミスとともにロサンゼルスを訪れ、レコーディングをおこないました。

アラディン・レコードのスタッフは、彼らになにかインパクトのある芸名が必要だと考えます。

そして、サム・ジョン・ホプキンスは「ライトニン(稲妻)」ホプキンス。

ウィルソン・スミスは「サンダー(雷)」スミスと名づけられました。

アラディン・レコードを皮切りに、ホプキンズはさまざまなレコード会社でレコーディングを行い、それらをヒットさせます。

50年代後半には白人層にも広く受け入れられ、代表的なブルース・ミュージシャンのひとりとして人気を博すようになりました。

彼のレコーディング量は膨大で、800曲から1000曲にのぼると言われています。

また、アルバムも100枚以上となっています。

帽子をかぶり、サングラスに葉巻、という彼のルックスも、まさにブルースのトレード・マークとしておなじみになりました。

その人柄も愛されています。

彼の個性的なギター・プレイは、のちに続くミュージシャンにも強い影響をあたえました。

まさに、ブルースの歴史を語るうえで欠かせない偉大なアーティストです。

今回は、ライトニン・ホプキンスをご紹介しました。

聴いてみたい!と思われたあなたは、こちらからどうぞ。
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